八谷磨流の趣味小説!

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猿和園(1)序章 2話 羽里山の花

月が始まった。世の中は例年に比べて忙しさを極めているが、季節もそうであることに気づいている人は少なかった。

「何でも書いていいの?」
「はい。好きに文字を書いて、本を作ってくださいね。貴女ならきっと上手にできますよ。」
少女は頷いて、黙々と書き綴った。他の生徒は軒並み絵を描き少しの文を書いた。少女は少し風変わりであったが、優秀な生徒で、先生はいつも手本にするようにと他の生徒に言い聞かせていた。少女が通っている小学校はそこそこ名のある、歴史ある私立学校だった。
少女は結局この時限には何も書くことができなかった。「ツムグちゃんはどんなのを書いたの。」と級友たちに問われると、困った顔をしたが、じっくり考える時間ができた。と微笑を浮かべて「ナイショだよ。」とだけ言った。
少女は、本条紡は今年三年生になった。数週間ほど前に元号が変わったばかりで、世間はいつになく騒がしく、自然が好きなこの少女は下り坂の帰り道が憂鬱で仕方なかった。街を見下ろしながら、そこへ自身が溶け込んでいくことが、まるでこの機械的な社会の歯車の一つとして収められにいくようで、自分が冷たく暗い、無感情で無機質な存在になるように感じられた。そうはいっても麓の寮までの短い道なのだが、まだ幼い少女にはとても長く感じられた。振り返って山へと駆け出したい気持ちを抑えながら、家族の顔を頭に浮かべ、"今日のおはなし"を思い描いた。


「ではみなさん。昨日書いたものが出来上がっている人は題名を決めてください。それ以外の人は続きを書きましょう。」
しばらくして、紡は色鉛筆を手に取ると、真っ白な紙を豪快に塗り潰し始めた。
「本条さん。これは何を描いているのですか。」
先生は机間巡視の途中にいつになく元気な少女のもとで立ち止まった。
「羽里山です。山歩きをした時に見たんです。」
「上手ですね。将来の夢は絵描きさんですか?」
「お絵かきなら上土居さんの方が得意だと思います。私の夢は上土居さんのお父さんのような立派な…立派な研究員さんになることです!」
チラリと目を向けると、上土居織は紡の方を振り返って笑っている。
織は紡の親友だった。入学する前からの付き合いで、紡ぐだけが口癖の「しょーらいの夢はでざいなー」の由来が、織が父から買い与えられた腕時計に感銘を受けたからだということを唯一知っていた。紡は織の父親、学者の上土居渉に憧れていた。織から二週間ほど前に彼が行方不明になったと聞いた時は自分の父親であるかのように動転した。二人とも気が気でなかったが、なんとかお互いに支え合うことでこころを保っていた。
「大学の人たちはお父さんの話をしたくないみたいなんだって。昨日お母さんが悲しそうに言ってた。でもそんなことはもうどうでもいいんだって。」
休み時間になると元気のない暗い顔で織が話しかけてきた。織の母親は娘を心配させまいと寮に通っていたが、次第にその頻度は少なくなっていた。大学がこの事件に触れようとしない理由がわからなかった。どうして誰も助けようとしてくれないのだろうか。またしても少女の心は冷たく、暗くなった。
「どうでもいいって、どうして。」
「わかんない。詳しいことがわかったらまたレンラクするっていってた。」
「オトナとか、シゴトとか、シャカイとか。全然わからない。」
しかし未来への希望がないわけではなかった。
「紡はいつか自分の研究で。私はでざいんで。ヨノナカを明るくしよう。」
チャイムが鳴り、先生が入ってくる。
「はい。みんな座って。三時限目は社会ですよ。」
紡は授業の社会は好きだった。学校が楽しいのはもちろんのことだが、理由は他にもあった。教科書は社会の仕組み、問題、必要としているものまでを教えてくれるし、先生がわからないことは捕捉してくれる。地図帳を眺めて様々な景色を想像するのも楽しかった。

三年生の授業は五時限目まである。紡は放課後に校庭の草花を見て回ってから寮へと帰るので、帰り道は一人の時がほとんどだった。友達も織以外は少し話をするくらいで、特段に仲の良い人はおらず、その織も最近は母親との面会のため早々に山を降りるのである。
それにしても、今年は花の咲き乱れようが凄まじかった。山の生気が活発になる五月といえども、草花、茂み、木までにも成長の兆しが見受けられるのである。
「しまった。」
紡は校舎の時計を見てあわてた。短針が放課から二周していた。寮には門限があり、帰りの遅い紡は寮長の山元になんども寄り道をするなとキツく言われている。
「またか本条。先週から数えて四回目だぞ。なぜ真面目なお前は時間にだけこうも横着なんだ。」
「ごめんなさい。学校のお花さんたちを見て回ってたんですけど最近増えてて全部を見回りきれないんです。」
時間を制限される。これも紡が社会を嫌う要因の一つであった。
「自然愛護の気持ちは結構。だが社会に出て一人前にやっていけんぞ。寮の花壇が一つ空いてる。好きな花を植えていいから。それで我慢してくれ。」
思わぬ言葉に驚くとともに、喜びが溢れかえった。
「キョーエツシゴクニゾンジマス」
衝動を抑えきれなくなった少女は手紙の用紙の催促もせずに、足早に花壇へと向かっていった。
「いち、に、さん、よん、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう。ゆらゆらとふるべ。」
先程校庭で集めた種を数粒取り出して、「おまじない」を唱えながら一つ一つ丁寧に埋めて土をかぶせた。
「おーい。もう夕飯の時間なんだけどなあ。雨も降りそうだし。早めに入ってこいよ。」後ろから聞こえる呆れた声は少女の耳には届かなかった。


翌日の朝、血気迫った表情の織が紡に話しかけてきた。
「お母さんがね、お父さんは大学を辞めたことにさせられたって。オトナ達が記録を変えるのなんて簡単なんだって。ひどすぎるよね。」
「じゃあ大学は本当に隠すつもりなんだね。警察はソーサとかしてるけど、渉さんの問題にされるってこと?渉さんがそんな人なはずがない。」
「私はお父さんを信じる。」
紡はますます社会への嫌悪感を募らせた。問題の真実を明らかにしようとしないことが許せなかった。織の傘を強く握った手がパッと緩んだ。
「あ、でもね。ウツギっていうガクセーさんがいるの知ってるでしょ?ホラ。猿和園に入る前によく遊んでくれた。あの人が頑張ってくれてるんだって。」
「わーなつかしいなぁ。そうだ。夏休みにウツギさんのところに遊びにいこう。」
「うん。それまでにお父さん見つかるといいなぁ。」
朝霧の中、校門には白いカーネーションが咲いていた。